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横浜地方裁判所 平成元年(ワ)1598号 判決

原告 甲野太郎

右訴訟代理人弁護士 小口千惠子

被告 乙山春夫

右訴訟代理人弁護士 山本英勝

同 立川正雄

同 前田一

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告に対し、金一三二〇万円及びこれに対する平成元年七月六日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  第一項につき仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二当事者の主張

一  請求原因

1  当事者及び本件船舶

(一) 原告と被告は、いずれも東京湾内で港運業を営み、同じ京浜船主組合に所属し、かつ、同郷で事務所も近いことから、親しく話を交わす間柄であった。

(二) 別紙物件目録記載の船舶(以下「本件船舶」という)は、いわゆる内航登録ナンバー(以下「本件内航登録ナンバー」という)が表示され、かつ、港運船のナンバーを有する老朽化した木造船であった。

(三) 右の本件内航登録ナンバーとは、内航海運業者が所有し、当該事業の用に供する船舶に表示しなければならない内航海運業法二一条所定の船舶に関する表示(許可に係る行政官庁及び運輸大臣等の指定する記号及び番号)である。

2  原告の本件船舶の取得及びその使用

(一) 原告は、昭和六一年六月一七日、訴外丙川松夫から、その所有する本件船舶を代金一八〇万円で買い受け、所有権移転登記を経由したうえ、これを原告の港運業のため使用していたが、昭和六二年一一月ころ、他の船舶を購入したため、それ以降は本件船舶を使用しなくなった。

(二) ところで、原告は、昭和六三年ころには横浜市による港運船の買い上げが行われることもあり得る旨の噂を耳にし、その際は本件船舶が買い上げの対象となるものと考え、それまで、本件船舶を港に係留して保存しておくことにした。

3  本件売買契約

原告は、被告との間で、昭和六三年一月八日ころ、本件船舶を代金一八〇万円で売る旨の合意(以下「本件売買契約」という)をし、原告は、被告に対し、所有権移転登記手続に必要な関係書類を交付するとともに、本件船舶を引渡した。

4  原告の錯誤又は被告の詐欺

(一) ところで、内航海運業者が内航海運業の用に供する船舶を建造しようとする場合は、船腹調整事業実施機関である日本内航海運組合総連合会の船舶建造の承認を得なければならないところ、右承認を得るためには建造に見合う引当船舶の解撤が条件とされ、内航登録ナンバーを有する船舶には右船舶建造の引当資格が付与されていた。そのため、内航海運業者間においては、内航海運業の用に供し得ない老朽船であっても内航登録ナンバーが付与されているものについては、右引当船舶とするため、これを求める者が多く、これらは高額で取引されていた。

本件船舶は、本件売買契約締結当時、内航登録ナンバー付の船舶としてトン当たり金一五万円を下らない価値を有するのであるから、少なくとも金一五〇〇万円の取引価値を有していた。

(二) ところが、原告は、本件船舶に本件内航登録ナンバーが表示されていたことは認識していたが、本件船舶が長期にわたり内航海運業に使用されておらず、かつ、長期にわたり内航海運組合の組合費を支払っていなかったことから、本件内航登録ナンバー自体が既に失効しているか、又は有効であっても既に右引当船舶資格を喪失し、いずれにしても、引当船舶としての価値を有していないものと誤信していた。

(三) 被告は、昭和六二年一二月二〇日ころ、原告方を訪れ、原告に対し、本件船舶を売って欲しい旨申し入れた。原告が渋ると、被告は更に執拗に売り渡してくれるよう求めた。そこで、原告が被告に対し、本件内航登録ナンバーが高く売れることはないかと尋ねたところ、被告はそのようなことはないと断言した。そこで、原告は、本件内航登録ナンバーが無価値であることを前提として、予想される横浜市の港運船買上価格相当額である金一八〇万円を代金とする旨申し出たところ、被告はこれを承諾し、本件売買契約が締結されたものである。

したがって、原告は、金一五〇〇万円以上の価値を有する本件船舶を、金一八〇万円の代金で売り渡す旨の意思表示をしたのであるから、右意思表示は要素に錯誤があり無効である。

仮にそうでないとしても、原告は被告に対し、本件内航登録ナンバーが取引の対象にならないことを表示して金一八〇万円の代金で本件船舶を売り渡す旨の意思表示をしたのであるから、右意思表示は動機に錯誤があり無効である。

(四) 仮に、右意思表示が錯誤により無効にならないとしても、被告は、本件船舶が引当船舶資格を有しているため、金一五〇〇万円を下らない価値を有することを知りながら、原告がこのような価値がないと誤信しているのに乗じ、これがない旨虚偽の事実を告げて原告を欺き、その旨誤信させたうえ、本件売買契約を締結させたものであるから、原告の売渡しの意思表示は被告の詐欺によりなされたものである。そこで、原告は、被告に対し、平成元年一二月一日の本件第四回口頭弁論期日において、右売渡しの意思表示を取り消す旨の意思表示をした。

5  したがって、本件売買契約は効力を有しないものであるが、被告は、昭和六三年一月三一日、第三者に対し、本件船舶を前記引当船舶として金一〇七五万円で売渡し、本件船舶は右引当船舶として解撤されたため、原告が本件船舶を取り戻すことは不可能となった。

しかしながら、本件内航登録ナンバーは、少なくとも金一五〇〇万円の価値を有するから、被告は、右金額から本件売買代金一八〇万円を控除した金一三二〇万円の利得を得、原告は同額の損失を被った。

仮に、本件船舶が金一五〇〇万円の価値を有しなかったとしても、被告は、本件船舶を代金一〇七五万円で転売しており、右金額から本件売買代金一八〇万円を控除した金八九五万円の利得を得、原告は同額の損失を被ったものというべきである。

6  よって、原告は、被告に対し、不当利得返還請求権に基づき、右金一三二〇万円及びこれに対する訴状送達の日の翌日である平成元年七月六日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1(一)の事実中、原、被告が親しく話を交わす間柄であったことは否認し、その余の事実及び同1、(二)、(三)の各事実は認める。

2  同2、(一)、(二)の各事実は知らない。

3  同3の事実は認める。

4  同4、(一)の事実中、内航海運業者が内航海運業の用に供する船舶を建造しようとする場合は、船腹調整事業実施機関である日本内航海運組合総連合会の船舶建造の承認を得なければならないところ、右承認を得るためには建造に見合う引当船舶の解撤が条件とされ、内航登録ナンバーを有する船舶には右船舶建造の引当資格が付与されていたことは認め、その余の事実、同4、(二)、(三)の各事実及び同4、(四)の事実中、被告は、本件船舶が引当船舶資格を有しているため、金一五〇〇万円を下らない価値を有することを知りながら、原告がこのような価値がないと誤信しているのに乗じ、これがない旨虚偽の事実を告げて原告を欺き、その旨誤信させたうえ、本件売買契約を締結させたものであるから、原告の売渡しの意思表示は被告の詐欺によりなされたものであることは否認する。

5  同5の事実中、被告が、昭和六三年一月三一日、第三者に対し、本件船舶を前記引当船舶として金一〇七五万円で売渡し、本件船舶は右引当船舶として解撤されたことは認め、その余の事実は否認する。

三  抗弁

(請求原因4の錯誤無効の主張に対して)

1 重過失の存在

本件内航登録ナンバーが失効していなかったことは、全国海運組合連合会及び横浜地方海運組合等にその番号の示して照会すれば、容易に判明し得たものであった。原告は、本件売買契約締結に際し、このような簡単な調査さえ行わなかった。

2 無効行為の追認ないし信義則

原告は、本件売買契約締結後、本件内航登録ナンバーに経済的価値のあることを知りながら、被告に対し、本件船舶の所有権移転登記手続きを促す等して履行の受領を求めた。原告の右行為は、原告主張の無効行為を追認したものというべきであり、これに対し、被告も黙示に承諾した。

さらに、右のように被告に対し履行の受領を求めた原告が、本件売買契約の無効を主張するのは、信義則上許されないものというべきである。

(請求原因4の詐欺を理由とする取消しの主張に対して)

3 法定追認

原告は、本件売買契約締結後、本件内航登録ナンバーに経済的価値のあることを知りながら、被告に対し、本件船舶の所有権移転登記手続きを促す等により履行の受領を求めた。

四  抗弁に対する認否

1  抗弁1の事実は否認し、主張は争う。原告は、本件船舶に本件内航登録ナンバーが存在することを知ってはいたものの、内航海運業に従事したことはなく、従ってその許可届出等の手続きをしたこともなかったのであるから、本件内航登録ナンバーが失効し、また、本件船舶に引当資格がないものと誤信したことについて、重大な過失はないというべきである。

2  同2の事実は否認し、主張は争う。錯誤により無効である場合、追認により有効となることはあり得ない。

3  同3の事実は否認する。原告が、被告に対して、本件船舶の所有権移転登記手続きを促す行為は、民法一二五条各号所定の事実に該当しない。また、被告は、本件船舶を第三者に転売しているところ、右転売後は、法定追認とはなり得ないものというべきである。

第三証拠《省略》

理由

一  請求原因1、(一)の事実中、原、被告が親しく話を交わす間柄であったことは《証拠省略》により認めることができ、その余の事実及び同1、(二)、(三)の各事実は当事者間に争いがない。

二  請求原因2、(一)、(二)の各事実は、《証拠省略》によりこれを認めることができ、右認定を動かすに足りる証拠はない。

三  請求原因3の事実は当事者間に争いがない。

四  そこで、請求原因4の事実中、錯誤による無効の主張について判断する。

《証拠省略》を総合すれば、以下の事実が認められる。

1  内航海運業者が内航海運業の用に供する船舶を建造しようとする場合は、船腹調整事業実施機関である日本内航海運組合総連合会の船舶建造の承認を得なければならないところ、右承認を得るためには建造に見合う引当船舶の解撤が条件とされ、内航登録ナンバーを有する船舶には右船舶建造の引当資格が付与されていた(右事実は当事者間に争いがない)。そのため、内航海運業者間においては、内航海運業の用に供し得ない老朽船であっても内航登録ナンバーが付与されているものについては、右引当船舶とするため、これを求める者が多く、これらは高額で取引されていた。

本件船舶は、本件売買契約当時、内航登録ナンバー付の船舶として、金一〇〇〇万円以上の財産的価値を有していた。

2  ところで、原告は、東京湾内で多年港運業を営み、京浜船主組合の副理事長であったので、内航登録ナンバーが財産的価値を有し、取引の対象とされていることは漠然と知っており、かつ、本件船舶に本件内航登録ナンバーが表示されていることも知っていた。

ところが、一方、原告は、本件船舶が長期にわたり内航海運業に使用されておらず、かつ、長期にわたり内航海運組合の組合費を支払っていなかったことから、本件内航登録ナンバー自体が既に失効しているか、又は有効であっても既に前記引当船舶資格を喪失し、いずれにしても、引当船舶としての価値を有していないものと誤信していた。

3  原告は、昭和六二年一一月ころまで、本件船舶を使用していたが、同月、新たに第六正晃丸を買い入れたために、本件船舶は必要がなくなった。ところが、原告は、横浜市が老朽船対策として、近々、本件船舶のような老朽船の買い上げを行う旨の噂を耳にしていたので、その際本件船舶も買い上げてもらうべく、それまで、港に係留して保存しておくことにした。

4  ところが、原告が本件船舶の使用を止めたことを聞知した被告は、昭和六二年一二月二〇日ころ、原告の勤務する会社を訪れ、原告に対し、本件船舶を売って欲しい旨申し入れた。原告が難色を示すと、被告は更に執拗に売り渡してくれるよう求めた。そこで、原告が被告に対し、本件内航登録ナンバーが高く売れることはないかと尋ねたところ、被告はそのようなことはないと断言した。そこで、原告は、本件内航登録ナンバーが無価値であることを前提として、予想される横浜市の港運船買上価格相当額である金一八〇万円(本件船舶のトン数二四〇トン掛ける六〇〇〇円と本件船舶のエンジン一二〇馬力掛ける三〇〇〇円の合計金額)を代金とする旨申し出たところ、被告はこれを承諾し、本件売買契約が締結された。

《証拠省略》中、右認定と食い違う部分は到底信用することはできず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

右認定の事実によれば、原告において、実際上金一〇〇〇万円以上の価値を有する本件内航登録ナンバーを無価値のものと誤信し、横浜市の港運船買上価格相当の価値しか有していない船舶として売買されており、原告の本件売り渡しの意思表示には、右の点において表示された動機の錯誤があったものというべく、かつ、右の錯誤は要素の錯誤にあたると解するのが相当であるから、本件売買契約は無効であるというべきである。

五  次に、抗弁1(重過失の存在)について検討する。

前認定のとおり、原告は、東京湾内で多年港運業を営み、京浜船主組合の副理事長であったので、本件売買契約締結前、内航登録ナンバーが経済的価値を有し、取引対象とされていることは漠然と知っており、本件船舶に本件内航登録ナンバーが表示されていることも知っていたこと、また、《証拠省略》によれば、原告は、被告の買受目的が本件船舶を使用するためではなく、転売によって利益を得ることにあることを知っていたこと、本件内航登録ナンバーが失効しているか否かは、全国海運組合連合会及び横浜地方海運組合等にその番号を示して照会すれば、容易に判明すること、原告は、本件売買契約を締結するに際し、このような簡単な調査さえ行わなかったことが認められる。

右認定の事実によれば、原告が右関係機関等に照会する等のわずかな注意を払っていれば、本件内航登録ナンバーが失効していないことは容易に知り得たものというべきであり、しかも、右程度の注意を払うことは一挙手一投足の労を要するにすぎないことであるから、漠然と被告のいうままに本件内航登録ナンバーが高く売れることはないと信じ込み、かかる必要最小限度の注意すら払わずに本件売買契約を締結した原告には、本件船舶の取引をなす者として普通に払うべき注意義務の著しい懈怠があるものといわざるを得ない。

したがって、原告には、本件内航登録ナンバーが無価値であると誤信するにつき重大な過失があったものというべく、原告は本件売買契約の無効を主張することはできないものといわざるを得ない。

六  進んで、請求原因4の事実中、詐欺による取消しの主張について検討する。

前認定の事実及び《証拠省略》を総合すると、原告が、本件内航登録ナンバーが金一〇〇〇万円以上の価値を有していたにもかかわらず、これがないと誤信したについては、被告の言動もその一因をなしていることが明らかであること、また、本件内航登録ナンバーが失効しているか否かは、全国海運組合連合会及び横浜地方海運組合等にその番号を示して照会すれば容易に判明すること、以上の事実に前記本件売買契約締結に至る経緯を併せ考えると、被告は、本件売買契約締結前、本件内航登録ナンバーが失効していないことを知っていながら、原告に対し、前記言動に及んだように見えないではないが、しかし、右事実から直ちにこのように断定することは躊躇せざるを得ない。

他に、被告が、原告の誤信に乗じ、虚偽の事実を告げて原告を欺き、その旨誤信させたうえ本件売買契約を締結させたことを認めるに足りる証拠はない。

七  以上によれば、本訴請求はその余の点について判断するまでもなく理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 永吉盛雄 裁判官 宇田川基 浦野真美子)

〈以下省略〉

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